なんでそんなこと、いうの


   071:あの人をあいしたかった、と遠くを見ながら君は言う

 喬木と灌木が互いを縛るように密に茂った。長く入り組んだ封同の現地ふうではなく枝折戸の裏口のある日本風の家屋を建てた。組織が事実上解体消滅し、葛は生死の判らなくなった葵とともに営んでいた写真館を畳むとこの地へこの家を建てた。軍属へ戻り大学校へ入り直すことも考えたがそのたびに葵の存在が葛の足を港湾部で踏みとどまらせた。港湾部の屋台は豊富だ。剥き出しの果実や揚げ菓子、蜜菓子など子供を相手にするかと思えば軽食を供する店もある。摘発を受けて店をたたむと素早く逃げ、ほとぼりが冷めるとまた戻ってくる。港湾部は人の出入りが激しいから顔を覚えられることは滅多にない。加えて人ごみの混雑もすごいから気を抜くと財布を掏られる。その港湾部から少し離れた位置に葛は居を構える。別に葵は船旅でいなくなったわけではないのだが葵が港湾部と言う界隈を気に入っていたからそこにしただけの話だ。新しい家屋を建てるにあたって葛は葵の分の部屋も用意した。それでいて仏間には仏壇を設えて葵の位牌まで用意して毎日線香をあげていた。
 結果として葵は帰還して転がり込むようにして二人の暮らしは再び始まった。葵は毎日のように港湾部へ出かける。人足としての仕事口を見つけたらしくもうすでにそこに馴染んでいる。葛は論文の清書や賞状書きと言った手内職を主に請け負った。写真館を営んでいた頃からそうなのだが、葛はどうも人と打ち解けない。なりがなりであるから気安くないのだ。葵は言うには葛は綺麗過ぎるから声をかけることに引け目を感じる、らしい。生い立ちとしても軍属一族として厳しくしつけられてきたから愛想笑いさえできない。幼い葛の覚えていることは、はい、いいえ、了解いたしました、完了いたしました、といった明確な上下関係のそれだ。だからどうしてもそのように対応してしまうから相性の悪い相手とはとことん険悪になる。上から言いつけられるのを嫌う相手など最悪だ。葛は紋切調の口調であるから余計に輪をかけることになる。葛の方もこれが駄目なら駄目でいいと開き直っているから余計に友人は増えない。
 葛は縁側に立っていた。喬木は百日紅だ。金雀枝も植えた気がする。百日紅は頑固な性質の樹だから土に馴染むまでは花も実もつけない。小鳥止まらずの目木は葛が好きで購入した。枝に小さいが鋭利な刺があるのが小鳥止まらず、の由来だ。武道をたしなむ一環として葛は華道もかじったからあの枝ぶりは良いななどと思う時がある。ただ顔に出ないし言わないだけだ。床の間には葛のさした花が置かれた。葵が浮かれて玄関にも置こうというのでそれを物色していたのだ。時期が来れば桜などもいいな、と思う。桜は矯めが利きやすいから割合好きな形に留められるのだ。その分さし手側の技量もあらわになる。葛は履き物を履くと庭へ出た。鋏を持っている。購入してもいいのだが出来れば無駄遣いはしたくない。葵の帰りを待つ間に小鳥の落とし物で庭木の種類は増えている。何本かこれと定めた花に鋏を入れる。花器の種類は少ないから自然とさす花も少なめになる。花を抱えているところに葵が帰宅した。
「たっだいま! あ、いけるの? 綺麗な花だな!」
きゃらきゃらと愉しげに笑う葵が喜ぶ顔を見るのは葛も好きだ。食事の下拵えはしてある、と言って葛は縁側から上がる葵は了解と言って玄関へ向かった。
 葛が花を生けている間に葵が食事の用意をする。写真館をやっていた頃のように自然と二人で家事を当番制でやっている。パチリパチリと鋏を入れて形を作っていく。少し離れたところで葵が食事を作る気配も判る。葵は大雑把なようでいて案外手の込んだ惣菜なども作れるから意外だ。何処で覚えたと言えば母親からだという。身の回りのことで自分が出来ることは出来るようになりなさいと教えこまれたという。そのくせ父親はいないんだけどねと嫌にあっさり言った。そんなふうであったから組織という二人の共通項が消滅した際に同居も消滅しても構わなかったが葵は葛のところへ帰って来た。それが葛に小さな、本当に小さな瑕疵を疼かせた。みるみる脳裏を埋めていくそれに花を活ける像が乱れを帯びる。気が散っている。出来あがったものは散逸と野放図な伸びを繰り返すようなまとまりのなさで振り捨てたくなったが花材がもったいないという小市民的な思考により、玄関へ何とか据えられる程度には手直しされた。
 縁側でぼんやりしていたのもそれが原因だ。
「たかちほ、いさお」
名前を転がす。出会いは唐突で無理やりでそれでいてどこか紳士的な男だった。語学も堪能で何カ国か語を使い分けていた。葛達が所有する類いの特殊能力も備えていて、それは葵も葛も敵わぬくらいの強さだった。年の割の落ち着いた風貌で軍属というには武骨さが足りない。どこか知能的でその通りの男だった。暴力や腕力で事を解決せず能力も必要以外には使わない。能力を必要以外には使わない、という心づもりは葛のそれと共鳴した。だから葛は高千穂に見せられた未来や政情よりも、彼の人柄に惹かれていたのかもしれないとも思う。彼は絶対に帰ってはこないというのに。彼は組織の崩壊の始まりに凶弾に斃れた。妹をかばって死んでいった彼の脳裏にはどんな日本があったのだろうと葛は時々思い出す。華道の心得があると世間話に話したら良い嫁になれるよと揶揄された。
 高千穂の触れてきた指先の温度さえ覚えている。かずら、と名を呼ぶ低音。頬を撫で唇をなぞり首筋に触れてくる。シャツの釦を引きちぎるような無粋はしない。かずら、きみは、きれいだ。高千穂はよくそう言った。身形だけではなくてね。心根というか芯がね。無論、綺麗な顔をしていることは認めるがね。葛は自分が綺麗であると思ったことはないしこれからもないだろう。だからそう言った。高千穂はわらって、それが綺麗だというんだよ、と言った。
「葛、どした?」
ひょこり、と覗いた葵の顔に葛の肩が跳ねあがった。ずきり、と心が痛んだような気がした。葛は確かに葵を待っていた。だが葛は高千穂勲という男の元へ走ったことも消せない事実だ。
 葵の肉桂色が夜闇を吸って暗紫色に煌めく。瞳孔の収縮や虹彩の燐光が見えるようだ。葵は葛の秘された何かを探っている。その眼差しから葛は目を逸らした。真っ直ぐで迷いもなく自信に満ちていて、葛にはない、強さ。
「何を隠してんの」
「お前には不快なことだ。知らない方がいい」
ぱん、と葛の頬が鳴った。葵の平手だ。手加減されているらしく唇の端を切っただけで頬が熱を帯びて腫れていく。
「言って」
「不快なことだ。知らなくともいいことだ、知る必要はない」
「言って」
「俺としても知ってほしくない。…なかったことに、してくれ」
「言って」
葛は黙って目を閉じた。ガッと胸倉を掴まれる気配がした。それでも葛は口を開くことさえしない。首が締めあげられても喘鳴さえ漏らさず眉一つ動かさない。

「言って!」

葛が沈黙したままだった。葵はゆっくりと手を放す。
「…――オレに言えないことくらい、あるって判ってたつもりだったけど。でもね、葛ちゃん。葛ちゃんが最近ずっと悩んでるのってそのことじゃないの? それってオレに言えないことなの? それっていう価値がないってこと? オレなんかが知るようなことじゃないから? それとも葛ちゃんは――オレを、悩みを分かつに値しない奴だって、想ってるの?」
ぐす、と洟をすする音がする。葛が目を開けると逢魔が時の薄闇を含んだ肉桂色の髪が震えていた。暗紫色に色を変えた双眸からはとめどなく落涙していた。泣き声を漏らすまいと噛みしめられた唇。縁側へ二人して座り込んだまま、葵の手がぶるぶる震えて拳を握っていた。
「無理強いしてるって判ってる。でも、でも、葛! 何考えてるんだよ?! ずっとオレが帰ってきてから、お前、ずっと…オレが何も気づいてないとか思ってるのかよ?!」
噛みつく勢いで葵が詰め寄る。純粋で無垢で朗らかで、それゆえに人の暗部を知らぬ愚者。
「…お前にとっては不快な話だ。知らぬ方がいいと俺が勝手に独り決めした」
「教えて! 不快でも痛くても何でもいい! オレは葛とともに居るって決めたから、葛のことは何でも知りたいんだ!」

なんて、優しい。
なんて、美しい。
なんて、愚かな。
苦しみを自ら抱え込むものがいるなんて。
葛は口を開いた。

 「高千穂勲のことだ」
刹那、びりっと電流でも走ったように葵の体が硬直した。
「俺は、高千穂勲の描く未来図に一時とはいえ賛同し行動を共にした。肌を合わせたこともある」
葛は目を伏せたまま淡々と話した。

「俺はあの人を愛そうと思ったことが、ある」

「愛すればきっと行動を共にする理由が出来る。彼、は俺の思想を否定はしなかった。だから、愛したかった」
「…――ッあ、ぅうあ…」
葵がしゃくりあげて何度も何度も目元を拭う。擦りすぎて紅くなっているのがかろうじて見て取れる。葵の目からはとめどなく涙があふれて洟も涎も垂れ流しだ。葵はありとあらゆる自制を失っていた。縁側の板張りの上にぼたぼたと葵の涙や洟やまた別の何かが滴を垂らした。
「…か、ずらが、高千穂と一緒に行った、のは」
「俺の意志だ」
葛は己の言葉が葵を切り刻んでいると知っている。手応えもある。これで葵はこの家を出ていくかもしれない。再会した時の喜びは嘘じゃなかった。本当に、本当に嬉しかった。あァまたこの男とともに居られるのだと思った時には涙が溢れて止まらなかった。
 だが葛には解決すべきことが眠っていた。かつて葵が預言者の女と逃げたように。葛は組織を裏切って高千穂勲の元へ走った。そこで、葛は高千穂に惹かれた。明確な将来を見据えたヴィジョン。段違いだった特殊能力。知識と教養と、高千穂はその全てにおいて最上級に磨きあげられていた。こんな男を愛せたらどんなにか良いだろう、と思った。女であったなら種を宿しても構わぬと思ったろうと思う。高千穂の元へいたとき、葵のことを忘れたことはなかった。だが、葛は現実問題として高千穂を選んでいた。
「あの人を愛せていた方が、好かったのだろうか」
刹那、衝撃が葛の頬を襲った。葵の拳だ。敏捷な葵の動きは速く視認が遅れた。口の中をころころと転がるものがある。同時に息が出来なくなるほどの血の匂いに噎せかえって葛は血を吐いた。真珠に輝くのは奥歯だ。葛の舌が欠けた奥歯を探った。口の中を食んで食いちぎったらしく肉片まである。喉へ流れた血に噎せて葛は何度も血を吐く咳をした。
「…ごめん。オレが言えた義理じゃないのは判ってる。でも、でも葛がオレじゃなくて高千穂を選んでいたらって思うと…!」
涙と洟に塗れた顔で葵が叫んだ。

「葛の中からオレがいなくなっちゃうかもしれないなんて嫌なんだ!」

「ならばなぜ貴様は預言者と逃げたッ」
「高千穂と行ったお前だっておんなじだッ! まさかオレが預言者と逃げたからその腹いせに高千穂の方へ行ったわけじゃないだろ?」
ばちん、と葵の頬が鳴った。葛の平手が命中した。吐いた血で真っ赤な口元の葛は白皙の美貌とあいまって夜鬼のように見える。辺りの漆黒に呑みこまれつつありながら葛の濡れ羽色の髪や双眸は見分けがつく。黒曜石の煌めきを宿す双眸が怒りに濡れていた。
「それだけ下種な発想が出来るなら気遣いは無用か」
「……………ごめん」
ごふっと葛が血を吐いた。葵の拳は予想以上に葛を痛めつけていた。葵は幼子のように泣きじゃくった。
「ごめんごめんごめんごめん」
預言者と逃げたこと。それでも帰ってくることを赦してくれたことも。葛にはいくら謝っても足りないくらいだ、と葵は泣きながら妙に冷静に思った。それでも葛が高千穂の元へ走ったことは赦せなかった。そんな資格はない。そんな権利はない。判っている、でも。
「ごめん、葛…――でも葛が、高千穂のことを、……愛せたら、なんて言う、から…!」

オレのことは愛してくれないの?

ばっと葵が隠しから取り出したナイフが葵の手の甲を突き刺した。じわじわと血だまりが広がっていく。
「我儘だよ、判ってる。頭に血が上ってるんだ…オレがしたことは赦されることじゃない、けど。葛がしたことだって、同じだって、オレは思っちゃうんだよ…!」
「葵よせ、手に傷が!」
ヒュウと葛の喉が鳴って、げほげほと噎せる。葵がぐり、とそのままナイフで己の左手を突き刺し留める。手からの痛みが頭を冷やす。葵の精神は葛の、高千穂を愛したかった、の一言で崩壊の危機に瀕していた。血を吐く痛手を被った葛に報いるように葵は己の手をナイフで貫通させた。
 涙も洟も垂れ流しだ。葵は体のありとあらゆる自制を失っていた。さらに深く刺そうとする手を葛の手が止めた。そのまま掴むと一気に引き抜く。灼けつく痛みが一瞬体を走る。血まみれの手が宙に血飛沫を散らす。
「葵、よせ! 責められるべきは俺の方だ」
葵は葛の唇を奪う。
「まだ、高千穂勲が好き?」
「……お前が、好きだ」
葵は声をあげて泣いた。激しい慟哭に葛は葵を抱きしめる。葛の胸で葵は慟哭する。葛は葵の熱を抱きしめながら思った。

あぁ、なんて、愛しいんだろう

本当に。高千穂勲を愛していたら? 葛の眼差しは暗渠の口を開けた天井を見据えた。



《了》

途中で熱出してわけわからなくなってるwwwww           2012年6月11日UP

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